人間は誰ひとりとして同じ人生を歩む人は居ません。ですが人間全員に共通するものがただひとつだけあります。それは【必ず死ぬ】ということです~どう死ぬかを考えるとどう生きるかが見えてくる~
人は人生の中の青年期から中年期までは、
「いい人と結婚しよう」「子どもを持とう」「お金を稼ごう」
というような、社会の中で【どう生きるか】ということに焦点をあてます。ですが、中年期以降の人生の後半からは【どう死ぬか】ということが加わってきます。
私の大好きな、臨床心理学者の河合隼雄先生が、その著書「対話する人間」の中で書かれている話がとても面白く、そりゃそうだなと声に出して笑いました。皆さんにもぜひご紹介したいのでここに引用します。
『電車の駅おりて家まで帰ってくる間の景色がいつも同じ景色だというのが大事なことじゃないでしょうか。帰ってくるときに、家が三軒ほどぽうっとなくなってたり(笑)、家に帰ってみたら二階のはずだったのに、急に五階になってたり(笑)……で、そんなことになったらものすごく不安になると思うんです。
~中略~
みんなを不安にしようと思ったら非常に簡単で、たとえば、朝起きてきたときに使う歯ブラシを隠しておくだけでも、人はちょっと不安になるんじゃないでしょうか。で、「私の歯ブラシどこ?」と必ずいうでしょう。「歯ブラシというのは、ある日とない日があるんじゃない」(笑)なんていわれると、たいへんなことになるんじゃないでしょうかね。』
引用文献:対話する人間 河合隼雄著 (講談社+α文庫)
つまり、自分が住む家であったり、いつも使っている歯ブラシであったり、いつもの道にある木であったりというような、自分にとっては当たり前の決まりきった世界が、私という存在を支えているのだと、河合先生は仰ってるんですね。
実は私、この逆パターンを経験したことがあります。
ある日突然、我が家に紺色のニットベストが出現したんです。
中高生が着るような。着古したベストです。勿論、家族の誰のものでもなく、ハンガーに掛けられてリビングにポンと現れたんです。それはもう、不安になるどころの騒ぎではなく、家族全員を恐怖に陥れました。そのニットベストが家族を傷付けた訳でもないのに。
「無いはずのものが有る」というたったこれだけのことが、まるで【私という存在の根っこ】を大きく揺らがすかのような衝撃を与えたのです。
そう考えると、
「毎日何気なく暮らしているこの日常が、私という存在をどれだけ支えているのか」
「毎日何気なく暮らしているこの日常が、私が生きていくことにどれだけ協力してくれているのか」
に気付きます。これが【いまを感謝する】という考えに繋がっていくのではないでしょうか。そして「あなたはどう生きるか?」と問われたら「私が生きることを支えてくれているこの何気ない毎日に感謝して生きよう」と、こころから思いました。怖くて封印していたニットベスト出現事件と、河合先生の言葉がバチンと繋がって私のこころにストンと落ちた瞬間でした。
そして最近、そろそろ私も【どう死ぬか】ということを考えようかな…と思うようになってきました。
よく「女は愛に生きる」と言われます。女性にとっては恋愛が、仕事や趣味のモチベーションとなることが多いからです。
「人間は必ず死ぬんだから、人生楽しまなきゃね!」
って、色んな相手と付き合って沢山の経験をして学びながら、人格が豊かになっていくこともあるでしょう。
ですが死ぬときは、たいていみんなひとりで死んでゆきます。
私の命が終わるとき、私は私の思い出と一緒に居たいのです。思い出とは、私がしてきた恋愛の数ではなく、あの日、あの時、あの人が、私に向けてくれた笑顔です。
だから私は、いま目の前に居る誰かに、いつも笑顔でいて欲しいと願います。その誰かが笑顔であるために、もし私の力が役立つのならば、全力で愛して全力で幸せにしたいと思います。
ということは、私も愛に生きる女…重たい女だなあと自分でも苦笑してしまいますが、
「しょうがないじゃん、それが私なんだし私の生き方だよね。」
「いい人と結婚しよう」「子どもを持とう」「お金も稼ごう」というような、社会の中で【どう生きるか】という問題は、青年期の課題です。それが達成されてしまうと、
「家族関係はこのままでいいのだろうか?」
「夫婦関係はこのままで良いのだろうか?」
「自分はこのままでいいのだろうか?」
「これからどう生きたらいいのだろうか?」
と思い悩む時期が、中年期以降の後半からやってきます。
このように、これから【どう生きるか】が分からなくなったとき【どう死ぬか】を考えると、光が見えてくる場合も多いものです。